自分の基準 


「私はとものことを完全に理解できるけど、
他の人たちには、”はてなマーク”が1000個ぐらい頭に浮かぶんだろうね」

そう言って彼女は笑った。


「そうなの?」
と少しだけ心外に思ったあとで、
まぁ別に、それならそれでもいいかな、と思った。

私のことを分かって、そして慈しんでくれる人だけで、私の周りが偏ってしまっていてもいい。
傍から見たら、”はてな”が1万個ぐらい浮かぶような偏りかもしれないけど、それでもいい。

バランスなんてとれていなくてもいい。



最近彼女と話していて、世の中にはシンプルに、ふたつのタイプの人たちがいるよね、という話になった。

『自分の基準で生きている人』
と、
『まわりの基準で生きている人』
の、ふたつ。


自分の基準で生きている人たちは、そうじゃない人たちから見ると「?????」といった感じなんだろうけど、よくよく見ていると、本当にシンプルだと思う。

共通点というか、一貫しているものは、
「自分がしたい。気持ちいい。楽しい。しあわせ」
という基準だけ。


遊びたければクリスマス明けにメキシコにまで行って遊ぶし、朝6時までも踊るし、
「二人はどんな関係・・・?」みたいな恋もするし、ちょっと悪いことだってしたければしちゃう。

好きだとか大切だと思う人は必死で大切にするし、「楽しくないけどとりあえずのつきあい」みたいなものにはものすごーく拒絶反応を示すし、でも、迷惑かけてないからいいよね?みたいな。

ただ、自分の基準で生きている分、返ってくるものは全て自分の責任であることも理解しているので、人のせいにしたり、恨んだり、文句を言ったりぐちったりはしない。



まわりの基準で生きている人を見ていると、なんだか、大変そうだな、と思う。

「昨日朝6時まで遊んでて、頭痛いんだけど、いまからボートに乗るの」と言うと、だいたい8割ぐらいの人たちが「クレイジーだね」、と返してくる。

世の中に、なにがクレイジーでなにが正常かなんて、なんにも決められていないのに。
そう言っちゃうと、いつかやってみたいと思ったときに、やってみられなくなっちゃうのに。


でも、そんなときに、「じゃあ頭痛薬いる?」とか「アフターパーティは無理しないようにね」とか言われると、私の、「自分がしたい。気持ちいい。楽しい」の基準はちゃんと尊重してくれて、その上での、その人が思いついた優しさなんだな、と思って嬉しくなる。
(そして、そんな風に優しくされると、逆にちょっと反省する)


自分の基準で生きている人たちは、他の人もそうやって生きていると思っているから、「一般論」なんかで人を判断することはあまりしない。

その代わり、すべての場面において「自分の基準」で一生懸命考えて、その瞬間に自分ができる精一杯のことをして、人や物事と誠実に向き合っていると思う。


そういう人たちはとても一貫しているから、一緒にいて安心するし、急にどこからか、「そんなのフツーありえない論」みたいなものがでてきてびっくりすることもない。
誰にも迷惑をかけていないのに、悪いことをしているみたいな気持ちにされて、悲しくなることもない。
「この人はこれが幸せなんだな、だったらいいか」と思ってあげられるから、たとえ不義理な恋でも(?)、見守ってしまってあげたりする。

だって、私たちは大人で、自分の人生には自分で責任を持つものだと思うから。
それで傷ついたり、人を傷つけたりしても、その責任も、ちゃんととる覚悟をしたうえでの選択だと思うから。


そういう人たちは、きっととても強いんだと思う。
精一杯に自分の基準を信じて、自分の責任で判断をすることは、とても勇気がいることだと思うから。


そして、そうやって、精一杯考えてやってしまったあと、
「人生で起こる、すべてのことには意味がある♪」
と言ってけろっと笑っている、
そんなノー天気でしあわせな私の友達たちを、最高に最高にカッコイイと思う。




Comments

いい文章にいい曲、ありがとう

いい文章ありがとうございます。
自分では『自分の基準で生きている人』になろうとしている、ただどこかで『まわりの基準』が気になってしまう。何か自分の考えてたことがそのまま文章になっていたようでとても共感しました。精一杯、自分の基準で生きていきたいです。

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